人生、還暦も過ぎるとその60年をしみじみ振り返る事が多くなる。
そしてこれまで自分は何人の人との邂逅があり、知り合いになったのだろうと考える。
もうとっくに忘れてしまっている人、名前も顔も曖昧で思い出せない人、
手元の名刺を並べてみてもほとんどの人が霞の向こうで認識できない。
この先、さほどの出会いも期待してないし、まして友人を増やそうとも思わない。
長く付き合っている友人も数えるほどだ。
学生時代の友人、そして社会に出てからの友人。今、友人と呼べる人はどれくらい残っているかな?
もう会わなくなってしまった人、なんとなく疎遠になってしまった人、海外に行ったきり行方知らずのヤツ、死んじまったヤツもいる。
この先思い出すことがない人も多くいるのだろう。
そんな中で今でも親しくしている友人のひとりに宮治淳一がいる。
彼と知り合ったのは1979年、もしくは80年の初頭。
最初に会ったのはたぶん渋谷の宮益坂にあった「エルカフェ」と言う喫茶店。
友人の編集者Nが宮治を連れて来た。Nと宮治は音楽出版社勤務のAを入れてバンドをやっていた。
Nがギター、Aがベース。ドラムのヤツはNの友人O。
宮治はそのバンドでギター、マラカスそして司会をやっている。
確かNがそんな説明をした。初対面から宮治は人見知りすることなくよく喋る奴だった。
結局彼らのやっているバンド『モッズライツ』に数回僕は参加した。
僕はピアノとギター、時にベースを担当した。
どんな曲をやったかあまり覚えてない。
「ウォーキング・ドッグ」「ポイズン・アイヴィー」そして「デヴィル・イン・ハー・ハート」を演奏したのは覚えている。
とにかくヒドイ音を出していた事だけは記憶に残っている。
その後、どういうきっかけで彼と親しくなっていったかははっきりしない。
宮治が60年代のグレッチ・テネシアン、あのジョージ・ハリスンが持っていたものと同年代のギターを持っていたことも僕らを親しくさせた要因のひとつだが。。
宮治は某レコード・メーカーでアーティストプロモーターをしていた。
メディア媒体等よくすれ違っていたのでオールナイト・ニッポンなんかに一緒に出向いたこともあった。
気がついたら知らないうちに彼とは親しくなっていた感じ。
宮治は僕より3歳年下である。ほぼ同年代と言える。
彼は50年代、60年代、そして70年代のポップミュージック(邦楽に至るまで)に驚くほど詳しかった。
アーティストや楽曲についてだけでなくレーベルの歴史やその成り立ち、当時の時代背景に至るまで、その博識ぶりに僕はいつも感心していた。
音楽ってこういう聴き方がるんだ、レコード収集の楽しみとはこういうものだということを彼から学んだ気がする。
いつだったか夏の終わり彼が生まれてからずっと暮らしている茅ヶ崎の実家に泊まりに行ったことがある。
彼の二階の部屋にはギッシリとレコードが並べられていた。
その古い家屋は冗談ではなくそのレコードの重さに必死で耐えている感じだった。
彼の家に年代物の大きなパラソルがありそれを担いで海まで行き、人気のない夏の終わりの海を眺めながらカセット・デッキから流れる60年代のポップミュージックに耳を傾け二人で延々と音楽談義をしていた。
というか、彼に講義してしてもらっていたようなそんな時間だった。
彼の講義はまずとても楽しい。それに尽きる。
その後、宮治は某映像会社に移り4年ほど仕事でLAに住む。
帰国した後、彼はワーナーミュージックの洋楽に籍を置いて現在に至っている。
帰国した彼と再び親しくなりその後、彼が茅ヶ崎で始めたカフェ「ブランディン」に僕はよく通うようになった。
その店の棚には宮治のアナログ・レコード・コレクションがぎっしり詰まっている。
そのブランディンで開かれるイベントにも何回か呼んでもらった。
ビートルズ・マニアとしてよく知られているMと何度かDJのようなこともやらせてもらった。
ここでも宮治は司会進行役。
宮治の軽妙でウイットに富んだプログラムの進行は現在でもラジオDJとして活かされている。
彼のラジオ番組(TBS No Music, No Friday!、ラジオ日本 ラジオ名盤アワー)にゲストとして呼ばれたり、埼玉までレーザー・ターンテーブルの試聴に行ったり、はたまたヴィンテージ・スピーカーのリプロダクトを見に行ったりと、ここ最近の方が若い時よりも頻繁に会うようになっている。
彼の音楽に対する純粋な思い、探求と研究を重ねるその真摯な姿勢、その長いキャリアで培われた膨大な知識を持ちながら驕り高ぶらず、有名無名こだわらず誰であれイーヴンに接する。
物心ついた時からその生涯は音楽と共にあり、いつも前向きに明るく、人の意見に耳を傾け、何より彼が人を批判したり悪く言うのを見たことがない。
そんな人格者である部分も僕は尊敬している。
それゆえ、宮治には僕がプロデュースしていたイギリスのバンド「BELAKISS」のプロモート業務を委託、仕事もさせてもらった。
余談だが宮治の小学校、中学校の友人には桑田佳祐、大学では音楽評論家萩原健太が同じクラブにいたこと、彼の周りには自然とそういう音楽というものに秀でた人が集まっていた。
宮治が「サザン・オールスターズ」の名付け親だということは有名な話だ。
宮治の結婚式で「いとしのエリー」を新婦の名前に変えて歌った桑田佳祐の演出に二人の友情を垣間見た気がして感動した。
さて、そんな宮治が桑田佳祐の還暦祝いに自主制作したムービーを送ったらしい。
そしてそれは「茅ヶ崎物語」という映画に繋がってゆく。
なんとその主役は宮治淳一である。
http://tales-of-chigasaki.com
詳しいことはここに書かない。
是非、この音楽探訪記である映画を観て欲しい。
圧巻の結末が待っている。
そしてこの映画と合わせて「MY LITTLE HOMETOWN」茅ヶ崎音楽物語」(宮治淳一・著)を僕と同世代のポップス愛好家に薦めたい。
トランジスタラジオやブラウン管の向こう側にある懐かしい時代が蘇って来る。
そろそろブランディンに出かけてまた宮治と音楽談義をしたいと思っている。
ROCKER AND HOOKER http://www.rockerandhooker.com/
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