先日、とあるパーティーで高田賢三さんにお目にかかる。
恐る恐る2ショットをお願いした。
高田賢三さんは今更言うまでもないがKENZOの創業者である。
KENZOは60年代後半、あの激動のパリ五月革命後、そのブランドをJUNGLE JAPというな名でスタートした。
そんな時代であるからその作品はフラワームーヴメントやヒッピー文化にも影響を受けていたのかもしれない。
花柄や色彩鮮やかな独自の作風で民族衣装をデザインに取り入れフォークロアブームを作ったのはこの人である。
また、日本から着物の生地を取り入れてスタイリングに活用するなどその奇抜なデザインは早くからジャポニズムを提唱していた。
今思えば、なんだかゴッホが浮世絵を自身の画風に取り入れたのと似ているように思える。
高田さんは日本の色彩美や和装のデザインをグローヴァルに活かせることを知っていたのだろう。
ゴッホと同じように日本文化や色調に魅せられ、やがてはデザインにおいて世界に広げられると早くから確信していたのかもしれない。
まだ10代だった僕に高田さんの情報が入ってくることもなく、そんな事実を知ることになったのはずっと後のことだ。
高田賢三さんがパリで活動し始めた時代はむしろパリよりロンドンが華やかだった時期だ。
ポップの中心はロンドンにあった。
ビートルズやローリングストーンズがカラフルな衣装に身を纏い、スウィンギング・ロンドン真っ只中だ。
音楽とファッションが既成概念を打ち破り、そのライフスタイルまでもが自由闊達になった羨ましくも素晴らしい時代。
そんな時代から彼はパリにいたのだ。
そしてずっと日本の心を持っていたのだろう。
70年代には入り日本人デザイナーがパリに進出、日本人デザイナーによる大きなムーブメント、その基盤を作ったのはまさにこの人である。
イブ・サンローラン、ソニア・リキエルと共にパリのモード界を牽引した。
若かった僕にはとても高価で手の届かないブランドであった。
僕が唯一手に入れたKENZOのレザー・テーラード・ジャケットは時代とともに良い感じで自然にエイジングされている。
何年か前にunikkデザイナーのHiromasa KANAIにシルヴァーでボタン作成交換を依頼、補修して愛用し続けている。
テイラードであるからこそ補修を繰り返し、アレンジして重ね着をしたり、決してフォーマルにならないようくたびれたスタイリングを自らリプロデュースする、そんな外し方こそ自分だけのオリジナルを作ることに繋がっている。
高田賢三さんが提案したペザント、レイヤードのスタイルをこのジャケットで継承している、と僕は勝手に自惚れている。
高田賢三さんは1993年にKENZOブランドをルイ・ヴィトンに売却、1999年には引退表明をしている。
しかし4年後の2003年独立デザイナーとして復帰。
アテネ・オリンピックで日本選手団の公式ユニフォームをデザイン、その後も種々のコラボレーションで現在に至っている。
現在、KENZOブランドは自身の手から離れてしまっているが、世界の誰もがKENZOといえば思い浮かべるのは高田賢三に他ならない。
まさに生きる伝説の人である。
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